水道のあゆみ

「岡山市水道の日」宣言

本市の水道は、1905年に全国8番目の近代水道として創設以来、一度の断水もなく営まれ、この度、記念すべき100周年を迎える。今日の全国に誇れる岡山市水道の礎を築かれた先人達の努力をたたえるとともに、今後新たな100年を持続可能な水道として「安全でおいしい水を安定的に供給する」ことを市民の皆様とともに確認し、通水の始まった7月23日を「岡山市水道の日」とすることをここに宣言する。

平成17年7月23日
岡山市水道事業管理者

(1) 沿革

1-1 創設

口ひげを生やしているバルトン氏の顔が描かれた絵

バルトン氏

岡山市は天正元 (1573) 年宇喜多直家の岡山城入城以来小早川、池田から明治に至るまで、31万5千石の城下町として栄え、明治22 (1889) 年に市制が施行されました。岡山の街は旭川の沖積層の上に作られた関係上、概ね湿地で飲料水としては水質が悪く、たびたびコレラ等の伝染病が流行しました。明治21 (1888) 年には、社会改良実業家の稲垣平衛氏が自然流下による棕櫚縄巻き竹管布設の簡易水道を提唱し、私費を投じて精密な測量、設計を行い当時の区長に実行を迫り、世論を醸成しました。このような中、水道布設の議が起こり、明治23 (1890) 年岡山市は英国人技師バルトン氏を招いて実地調査諸種の設計に当たらせました。

白黒の稲垣平衛氏の顔写真

稲垣平衛氏

同氏の設計によれば、水源地を「牟佐渡しの下流、旭川右岸」 (玉柏管掛用水の取水口の下流) に設け、沈でん池2池、ろ過池3池を築造し、管掛用水の東岸に沿って20インチの陶管を布設、内山下の榎馬場 (相生橋西詰のあたり) に設けた浄水池へ送水、ここからポンプで全市へ配水するものでした。工事の予算額は陶管を使用する低圧法で12万円、鉄管を使用する高圧法で27万円でしたが、明治24 (1891) 年の岡山市の総予算額は2万5,000円であり、財政的にどうすることもできませんでした。その上、明治25年、26年には大洪水に見舞われ、その復旧を急がねばならなかったので、水道布設のことは自然に話が止み、せっかくのバルトン氏の設計も日の目を見るに至りませんでした。

蝶ネクタイをしている小田安正氏が描かれている絵

小田安正氏

明治28 (1895) 年頃からコレラが流行したので水道布設の急務が再び叫ばれだしました。明治30 (1897) 年7月22日、時の市長小田安正 (三、四代目の市長) は、知事をはじめ県の高官ならびに市の議員、その他関係者を後楽園に招いて水道布設の急務を力説するとともに援助を懇請しました。これが第二次の布設計画の端緒となっています。10月には、広島市の第5師団設置に伴う水道布設を担当していた吉村長策技師を招き、調査、設計を委嘱しました。市役所土木課には水道布設調査掛が開設され、調査、設計を始めることとなりました。この時の工事予算額は77万7,600円でしたが、その後、鉄管の単価暴騰のためと、給水人口7万人を8万人に改めたことにより、予算額を83万743円に改めました。

胸に沢山の勲章を付けている吉村長策技師の白黒写真

吉村長策技師

こうして国庫補助の獲得に努める一方、明治33 (1900) 年11月15日、水道工事課を開設し、用地の買収、工事設計あるいは材料の購入等仕事は進んでいきましたが、公債の募集でつまずいたことから世論が悪化しました。市議会においても不景気の折から水道の布設は当分見合わせるべきだという水道延期派と、あくまで水道を早急に布設すべきだという水道断行派の二派に分かれ、選挙運動もこの二派が激しく争う程でした。このように水道問題が暗礁に乗りあげていたところ、明治35 (1902) 年にコレラが大流行しました。この時、内務省派遣の防疫官は「水道布設がもはやゆるがせにすることのできない時期に至っている」といった意味のことを語ったので、延期派議員もとうとう水道布設に同意することになり、予算の修正、市長の辞職を条件として、明治35 (1902) 年5月1日の議会で水道布設の大問題は解決しました。

手前に池があり奥に木々が立っている取水場築造工事の様子を写している白黒写真

取水場築造工事
(明治36年)

市議会の混乱のため、しばらく機能を停止していた水道工事課もこれで再び活動を始めることとなりました。明治36 (1903) 年2月22日、水道工営所が工事に着手しました。ところが折り悪しく日露戦争が起こり、工事材料の入手難、労力不足で工事の進捗に支障をきたしましたが、市長以下当局の懸命の努力で明治38 (1905) 年3月31日には大体工事を終え、7月23日には半田山配水池で盛大な通水式を行いました。横浜、函館、長崎、大阪、東京、広島、神戸に次ぐ8番目の近代水道であり、これらの都市が大都市あるいは開港都市として早くから著名であったのに比して、一地方小都市がこのように早く水道をもったことは大いに誇ってよいことではないでしょうか。

木材で出来た橋が架かっている京橋水管橋橋台工事の様子の白黒写真

京橋水管橋橋台工事
(明治37年)

明治38 (1905) 年4月1日、従来の水道工事課を廃し新たに水道事務所を市役所内に置き、経営組織を改め給水規則を定め、給水申込の勧誘を始めたところ意外な好成績を収めました。当時の基本計画は給水人口8万人、1人1日最大給水量97リットル、1日最大給水量7,800立方メートルで、明治38年度末は給水戸数7,434戸、給水人口23,370人、年間給水量59万8,148立方メートルでした。

1-2 第1期拡張事業

半田山3号配水池が写された白黒写真

半田山3号配水池
増設工事
(大正8年)

明治41 (1908) 年9月に、岡山市に第17師団が設置され一躍給水の需要が増加しました。このため計画給水人口12万人、1日最大給水量1万1,700立方メートル、1人1日最大給水量97リットル、工事費28万7千余円の計画で明治45 (1912) 年4月に着工、大正11 (1922) 年3月に竣工しました。本工事でろ過池 (2池) 、配水池 (1池) 、送水ポンプ (1台) 等を増設しました。

1-3 第2期拡張事業

第二次隣接村の編入で大正10 (1921) 年には2,772戸、9,677人が増加したので給水量の不足をきたし、ある区域においてはしばしば断水する有様となりました。そこで、施設を拡張することとし、給水人口18万人、1人1日最大給水量167リットル、1日最大給水量3万立方メートル、工事費139万3,846円の計画で大正13 (1924) 年2月着工、昭和2 (1927) 年3月これを終えました。この工事で取水場、取水ポンプ (2台) 、沈でん池 (1池) 、ろ過池 (4池) 、配水池 (2池) 、配水管等を増設しました。

1-4 第3期拡張事業

橋の下に排水管が沢山写されている白黒写真

「中橋」下の配水管修理
(昭和9年)

懸案の市域拡張が昭和6 (1931) 4月1日から実現することとなり、福浜村、平井村、宇野村が編入され、これにより一躍2,796戸、1万1,529人増加し、給水量の不足をきたしたので、取りあえず、昭和7年度から10年度に至る4か年継続の実施計画を発表しましたが、昭和9 (1934) 年9月、室戸台風が猛威をふるい、岡山市は大洪水に見舞われ、上水道施設も甚大な被害を被りました。復旧工事の大体を終わるや、直ちに施設計画の変更を行い、不慮の災厄に対する絶対安全策を立て、給水人口20万人、1人1日最大給水量236リットル、1日最大給水量4万7,000立方メートル、工事費130万円、年度も昭和11年度まで5か年継続に改め、昭和10 (1935) 年9月認可を得て10月に着工、工事は予定通り支障なく進捗し、昭和12 (1937) 年9月にこれを終えました。

沢山の配水管が写されている白黒写真

市南部への配水管布設
(昭和10年)

この工事の成果は、浄水場構内に伏流水取水設備を設け1日2万トンを取ることができるようになったこと、予備動力としてディーゼル機関直結の発電機を2台設置したこと、それから中央幹線配水管を布設して配水設備を強化したほか、操山調整池 (1池) 、門田ポンプ場を築造して旭東地区、三蟠方面の給水を円滑にしたこと等です。

1-5 第4期拡張事業

本期工事は昭和17 (1942) 年12月、本市南部に工場の建設が決まり、工場用水需要の激増が予想されたこと及び市区の拡張が計画されたので水道施設拡張の必要を認め、115万円で昭和19年 (1944) 年2月に着工しました。その後、情勢の変化により数度の計画変更を余儀なくされ、計画給水人口31万5千人、計画1日最大給水量11万立方メートル、1人1日最大給水量350リットル、総事業費9億9,189万2,000円となりました。竣工した主要な施設は、三野三挺樋中州の1,200ミリメートル集水管、550ミリメートル集水管、550ミリメートル導水管、第2送水ポンプ室、集水井、水管橋、800及び700ミリメートル送水管、800及び700ミリメートル中央幹線配水管、1,050馬力ディーゼル機関直結発電機1台の増設、薬品沈澱池 (第4号沈澱池を改造) 、総合取水ポンプ室、原水管理室、浄水池などです。

1-6 第5回拡張事業

地面に溝が彫られ、土管が写っている白黒写真

岡山県南広域都市計画の中心都市として目覚ましい発展と、広域行政の基幹事業として将来予想される広域給水計画に備えて、35億4,000万円で昭和39 (1964) 年4月に着工しました。その後、昭和44 (1969) 年2月18日に西大寺市と、同46年 (1971) 年1月8日に津高町、一宮町、高松町と、同年3月8日には吉備町、妹尾町、福田村と合併を行い、引続いて同年5月1日には上道町、足守町、興除村との合併が実現されました。

水道事業としては、合併問題と関連して、上記合併地区における上水道、簡易水道等の吸収統合を行う必要がありましたが、差し迫った問題として当合併により解散した吉備上水道企業団に対しては、その水源が全量を岡山市からの分水に依存していた事業体制からみて、直ちに同企業団の構成町村でありました吉備地区、妹尾地区、福田地区を給水傘下に吸収統合しましたが、興除地区についても同様の統合を行うことにしました。したがって、その後の基本的な方針としては、合併地区のうち、吉備、妹尾、福田、興除の4地区に限り現給水区域に統合し、残りの津高、一宮、高松、上道、足守の5地区と西大寺地区上水道の各事業は昭和48年度まで現状のまま存続させることにしました。これら情勢の変化により数度の計画変更を余儀なくされ、計画給水人口40万人、計画1日最大給水量23万立方メートル、1人1日最大給水量575リットル、総事業費88億2,979万円で昭和49 (1974) 年3月完工しました。

1-7 第6回拡張事業

昭和48年度に完成した第5回拡張事業に引き続いて、市勢の伸展による水需要量の増加に対応すると共に、水道事業の合理的な運営を行うため、第6回拡張事業計画を策定し、昭和48年度末に水道事業変更認可を得ました。本事業は、西大寺地区、一宮、高松地区、津高地区及び上道地区の各上水道事業を吸収統合すると共に、牧山地区及び百枝月、内ケ原地区の簡易水道事業も併せて統合し、市域北西部の足守地区及び三和、日応寺地区と犬島地区の簡易水道区域並びに市域内に存在する4か所の専用水道を除く全市域を上水道の給水区域とするものです。また供給能力の増強を図るため、旭川、吉井川両水系の浄水場を整備、拡張するものとし、計画目標年度を昭和55年度において、計画給水人口57万6,000人、計画1日最大給水量40万立方メートル、総事業費200億円として昭和49年度から事業に着手しました。昭和50 (1975) 年5月藤田村との合併に伴い、同村の水道の水源が岡山市からの分水であった関係上、直ちに上水道に吸収統合する必要があり、給水区域を藤田地区まで拡張し、また計画給水人口を58万6,000人に増加するための変更認可を得ました。昭和48年度後半に発生した石油ショックを契機とする経済変動の影響は、水道事業にも波及し、給水量の実績は計画値を大幅に下回り、また建設資材及び労務賃金の異常な上昇により事業費も大幅に高騰しました。このため、昭和51年度に経済変動後の水需要量の動向、さらには水資源の有効利用を図るため、水道の有収率の向上対策の強化及び節水対策等を考慮して、将来の水需要量を予測し、これに基づく施設計画及び事業費について検討を加え第1回目の事業計画の見直しを行いました。この結果、計画目標年度を昭和62年度、計画給水人口61万8,000人 (認可は58万6,000人) 、計画1日最大給水量40万立方メートル、総事業費350億円に変更しました。昭和55年度に本市の総合計画の見直しを行うことが決定され、これを機に第6回拡張事業についても昭和51年度に行いました第1回事業計画の見直し以降、経済の低迷に加えて省資源運動等の影響により、水需要量の伸びが依然として低率的に推移している状況を考慮して、第2回目の事業計画の見直しを行いました。この結果、計画目標年度を昭和68年度、計画給水人口67万1,000人 (認可は58万6,000人) 、計画1日最大給水量40万立方メートル、総事業費430億円に変更し事業を推進してきましたが、さらに第3回目の事業計画の見直しを行い第6回拡張事業は昭和62年度末で打切り、引き続いて第7回拡張事業に移行することとしました。

1-8 第7回拡張事業

昭和60年度に第6回拡張事業計画の見直しを行った結果、その内容が給水区域の拡張、給水人口及び給水量の増加、施設計画の見直しを行うなど大幅な変更となり、また第6回拡張事業が長期にわたっているため、これを昭和62年度をもって打切り、引き続いて第7回拡張事業に移行することとし、昭和62年度末に水道事業変更許可を得ました。本事業においては、上水道給水区域外 (三和、日応寺簡易水道区域内) に開設されました岡山空港への給水を上水道によって対応するため配水施設の整備を行うと共に三和、日応寺簡易水道を廃止して、上水道に統合することとしました。また水源の確保が急がれている東山内及び足守簡易水道を廃止して周辺未給水地区を含めて上水道に統合する統合簡易水道事業として施設整備を図ることにより、未給水地区解消に必要な水源を併せて確保し、未給水対策の方向づけをすることとしました。さらに犬島簡易水道も上水道に統合し、上水道給水区域を拡張し給水の広域化と経営の合理化を図ると共に、安定給水を図るため今後の水需要量の動向や手当済の水源開発、さらには昭和59年度に設立された岡山県吉井川広域水道企業団 (現岡山県広域水道企業団) からの受水等を考慮して拡張事業の見直しを行いました。また、供給能力の増強を図るため、旭川、吉井川系の浄水場を整備拡張するものとし、計画目標年度を平成12年度、計画給水人口64万8,000人、計画1日最大給水量41万1,000立方メートル、総事業費340億円として昭和63年から着手しました。事業着手後3年を経て、当初計画では上水道の区域外としていた市域北部地域において給水要望が起こり、未普及地域解消計画が急務となったため、平成3年3月に給水区域を拡張し全市域を上水道の給水区域に包含すると共に、寺山水源系の計画を岡山県吉井川広域水道企業団からの受水に切り替え、同企業団からの受水地点及び受水量の増加も考慮して、事業計画の見直しを行い、計画給水人口を64万9,000人に増加し、総事業費を280億円とした事業変更認可を得ました。平成8年度事業計画及び本市の第4次総合計画を基本とし、また長期にわたる経済の低迷並びに平成6年の異常渇水に伴う市民の節水意識の高揚により水需要量の伸びが低率的に推移している状況、さらに厚生省の「ふれっしゅ水道」計画に基づいた基幹施設の整備等による事業量の増大を考慮し、第2回目の事業計画の見直しを行いました。平成9年7月1日には、岡山県広域水道企業団からの受水を開始しました。平成14年3月31日、山陽町が岡山県広域水道企業団から受水を開始することに伴い、同町との分水契約を解消しました。第7回拡張事業は、計画目標年次を平成12年度、計画給水人口を649,000人、一日最大給水量411,000立方メートルとし、昭和63年から基幹施設の拡充や給水区域を全市域とした既存簡易水道の上水道への統合、水道未普及地域の解消を目的として実施してきました。しかしながら、事業着手から14年を経て主な施設整備は共同溝等を除いて概ね完了し、また、平成14年3月には、平成3年から5地区に分割して実施してきた未普及地域解消事業が、福谷無水源簡易水道事業の完工をもって全て完了したことともあり、平成13年度をもって「拡張事業」を打ち切ることとしました。また、水質基準が強化されることに対応し、平成13年度に水質試験所を新築しました。

1-9 第1次基幹施設整備事業

文字どおり拡張の時代から維持管理時代を迎える中で、水道に対する市民ニーズの多様化や社会環境の変化等を踏まえて、健全な事業経営を維持しつつ、渇水や地震に強い水道づくりを行うことが重要となってきました。これらの課題に応えるため、平成14年度から新たに配水池の2池化、老朽施設の更新及びクリプトスポリジウム対策等の事業を柱とする「第1次基幹施設整備事業」に着手しました。なお、維持管理時代を迎える中で、過大な施設整備を避け、適切な設備投資を行うため、平成15年2月に最近の水需要の実績を踏まえた水需給計画の見直しを行い、計画目標年次を平成22年度、計画給水人口を654,500人、一日最大給水量を348,000立方メートルとしました。また、平成16年2月には浄水場の施設整備方針を見直し、老朽化し、質、量ともに不安定な小規模水源を効率の良い水源への統合及び受水への切り替えを行うこととし、平成15年度末をもって長野浄水場を休止しました。平成17年度には、苫田ダム供用開始に伴い岡山県広域水道企業団からの受水が全部供給となり、西祖配水池でも受水を開始したため、西祖浄水場は休止しました。また、鴨越浄水場は、施設の老朽化や原水の水質問題等を抱えていたため、平成20年度に岡山県広域水道企業団からの受水への切替を行うこととして、久保配水池で受水を開始し、平成21年1月15日に休止しました。

1-10 第2次基幹施設整備事業

第1次基幹施設整備事業の着手から3年経過後、用地の取得交渉や地元調整の難航、共同溝や道路建設主体工事の遅延等から当初計画とかい離してきたため、これを見直し、平成17年度から平成21年度までの5か年計画で総事業費100億円とした「第2次基幹施設整備事業」に着手しました。平成17年3月22日には岡山市と御津町、灘崎町との合併により『合併に伴う水道事業の全部譲受けの届出』を厚生労働省に提出し、御津町及び灘崎町の水道事業は平成17年3月21日をもって廃止しました。さらに、平成19年1月22日には建部町、瀬戸町との合併により『合併に伴う水道事業の全部譲受けの届出』を厚生労働省に提出し、建部町及び瀬戸町の水道事業は平成19年1月21日をもって廃止しました。

1-11 第3次基幹施設整備事業

第2次基幹施設整備事業についても着手から3年が経過し、4町との合併や岡山市水道事業総合基本計画 (アクアプラン2007) の改正及び第8期岡山市水道事業変更認可に伴う需給計画の見直しにより、平成20年度から平成24年度までの5か年計画で総事業費100億円として、「第3次基幹施設整備事業」に着手しました。また、平成21年4月1日には政令指定都市に移行しました。

1-12 第4次基幹施設整備事業

平成23(2011)年3月に発生した東日本大震災の教訓を生かし、近い将来、発生が予想されている南海トラフ巨大地震に備えた水道施設の更新及び耐震化を推進するため、災害に強い水道づくりを目的とした岡山市水道事業総合基本計画アクションプラン後期編を策定すると共に、平成24年度から平成28年度までの5か年計画で総事業費100億円として、「第4次基幹施設整備事業」に着手しました。

(2) 登録有形文化財

岡山市の上水道は、全国で8番目に通水を開始した近代水道ですが、創設当初の各施設が良好に残されており、しかもその多くが現役で稼働していることから、平成17年2月、10件の水道事業関連施設が登録有形文化財に登録されました。

  •  三野浄水場第一水源取水口
  •  三野浄水場緩速ろ過池
  •  三野浄水場旧動力室、送水ポンプ室
  •  半田山配水地一号配水池
  •  半田山配水地二号配水池
  •  半田山配水地三号配水池
  •  半田山配水地創建量水室
  •  半田山配水地増設量水室
  •  半田山配水地旧事務所
  •  京橋水管橋

なお、三野浄水場緩速ろ過池及び京橋水管橋は、現存する施設で日本最古のものです。

登録有形文化財はこちら

参考資料1:年表 (岡山市の水道の歴史)

岡山市の水道の歴史一覧表

岡山市の水道の歴史

1888年(明治21年)

稲垣平衛氏棕櫚縄巻き竹管布設の簡易水道計画を提唱

1889年(明治22年) 6月

岡山市制施行

1890年(明治23年) 12月

バルトン氏を招へい、上下水道の調査、設計にあたる

1897年(明治30年) 7月

市長小田安正水道布設の急務を力説

1897年(明治30年) 10月

陸軍省技師吉村長策氏に調査、設計を委嘱

1901年(明治34年) 1月

上水道布設認可

1902年(明治35年)

コレラ大流行

1903年(明治36年) 2月

御野水源予定地で起工式挙行

1905年(明治38年) 7月

上水道工事完成、半田山配水池において通水式挙行

1912年(明治45年) 4月

第1期拡張工事に着手(大正11年3月まで)

1924年(大正13年) 2月

第2期拡張工事に着手(昭和2年3月まで)

1934年(昭和9年) 9月

室戸台風により甚大な被害

1935年(昭和10年) 10月

第3期拡張工事に着手(昭和12年9月まで)

1944年(昭和19年) 2月

第4期拡張工事に着手(昭和37年3月まで)

1964年(昭和39年) 4月

第5回拡張工事に着手(昭和49年3月まで)

1964年(昭和39年) 5月

半田山植物園開園

1965年(昭和40年) 9月

水源林造成事業に着手(苫田郡富村)

1966年(昭和41年) 4月

工業用水道通水

1969年(昭和44年) 2月

西大寺市と合併

1971年(昭和46年)

津高町、一宮町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、上道町、足守町、興除村と合併

1974年(昭和49年) 4月

第6回拡張工事に着手(昭和63年3月まで)

1975年(昭和50年) 5月

藤田村と合併

1984年(昭和59年) 11月

岡山県吉井川広域水道企業団設立

1985年(昭和60年) 7月

通水80周年。岡山市水道記念館開館

1988年(昭和63年) 4月

第7回拡張工事に着手(平成14年3月まで)

1989年(平成元年) 6月

市制施行100周年

1990年(平成2年) 4月

財団法人 岡山市水道サービス公社設立

1997年(平成9年) 7月

岡山県広域水道事業団から受水開始

2001年(平成13年) 10月

水源林事業に着手(真庭郡新庄村)

2002年(平成14年) 3月

水道未普及地域解消事業完了

2002年(平成14年) 4月

基幹施設整備事業に着手

2005年(平成17年) 2月

10件の水道施設登録有形文化財に登録

2005年(平成17年) 3月

灘崎町、御津町と合併

2005年(平成17年) 4月

水道記念館リニューアルオープン

2005年(平成17年) 7月

通水100周年

2007年(平成19年) 1月

瀬戸町、建部町と合併

2009年(平成21年) 4月

政令指定都市に移行

参考資料2:給水状況の推移

年度別給水状況の推移表

年度

給水人口
(人)

年間配水量
(立方メートル)

一日最大配水量
(立方メートル)

明治 38年

23,370

598,148

3,560

43年

47,620

2,245,007

7,464

大正 4年

61,183

3,014,126

11,792

9年

94,262

4,387,292

15,087

14年

117,019

5,764,615

19,518

昭和 5年

137,561

9,523,986

33,327

10年

157,387

10,207,180

36,210

15年

162,454

12,033,346

40,782

20年

87,600

17,654,955

57,496

25年

170,582

14,963,905

44,500

30年

200,284

21,350,664

76,329

35年

232,740

33,259,690

120,080

40年

289,506

49,342,560

175,620

45年

422,270

64,151,578

232,594

50年

507,455

79,541,514

273,157

55年

535,259

83,125,010

299,622

60年

561,720

90,817,936

307,210

平成 2年

585,137

100,035,403

328,919

7年

604,932

101,841,420

338,636

12年

624,220

100,613,747

337,647

17年

665,492

96,248,560

297,870

22年

697,914

94,913,517

296,572

27年

705,474

94,324,362

274,478

令和 2年

 705,719    88,505,848     277,809

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